メアリー・シェリーの同名小説を基にギレルモ・デル・トロが監督/脚本を担当し、オスカー・アイザックが主演を務めた「フランケンシュタイン(2025)」。Netflixにて配信された映画ですが、皆さんはご覧になりましたでしょうか?
私も視聴したのですが、原作の「フランケンシュタイン」とはまた違った、設定やストーリーがとても印象に残っています。この記事ではNetflix版「フランケンシュタイン(2025)」について詳しく解説していこうと思います。原作と違う部分もいくつかあったり、見どころや印象的なシーンなど、幅広く紹介していきますので、今作を視聴した方に見ていただけると幸いです。
- Netflix版「フランケンシュタイン(2025)」について
- キャスト:Netflix版「フランケンシュタイン(2025)」
- 原作との違い:Netflix版「フランケンシュタイン(2025)」
- 原作と共通する要素:Netflix版フランケンシュタイン
- 今作のテーマと見どころ:Netflix版フランケンシュタイン
- ミア・ゴスが一人二役演じている理由:Netflix版フランケンシュタイン
- 「死ねない」という恐ろしさ:Netflix版フランケンシュタイン
- ヴィクターは怪物のことをどう思っていた?:Netflix版フランケンシュタイン
- 怪物はヴィクターのことを愛していたのか:Netflix版フランケンシュタイン
- 怪物とエリザベスの関係は?:Netflix版フランケンシュタイン
- 本当の「怪物」は誰か…:Netflix版フランケンシュタイン
- 怪物のその後の人生は?:Netflix版フランケンシュタイン
- 怪物たちを演じた歴代俳優たち:Netflix版フランケンシュタイン
- まとめ:Netflix版フランケンシュタイン
Netflix版「フランケンシュタイン(2025)」について
まず、Netflix版「フランケンシュタイン(2025)」について軽く解説していきます。
今作は、「パンズラビリンス」や「シェイプ・オブ・ウォーター」などの作品で知られるギレルモ・デル・トロ氏が、25年の年月をかけて作り上げた作品とのこと。特に「フランケンシュタインの怪物」への愛を込めて制作したようです。
主演は「スターウォーズ」シリーズのポー・ダメロン役や、ドラマ「ムーンナイト」で主役を務めたオスカー・アイザック。その他、今注目となっている若手俳優のジェイコブ・エロルディが怪物役として出演しています。
Netflix限定の独占配信作品となっていますが、一部の劇場に公開もされています。
メアリー・シェリーの同名小説を基にしつつ、デル・トロ氏の新たな視点から描いたストーリーがとても印象的なのですが、ストーリーだけでなく、19世紀のヨーロッパの雰囲気なども楽しめる一作です。
デル・トロ氏の作品が好みの方や、ゴシックな世界観が好きな人にはたまらない作品なのではないでしょうか。
そして、一番注目して欲しいのが今作のテーマです。
原作では主に怪物の悲しみや苦しみ、自身のアイデンティティの葛藤をメインに描いているのに対し、この作品だと「父と子」をテーマにしていることがデル・トロ氏のインタビューで明かされています。
キャスト:Netflix版「フランケンシュタイン(2025)」
お次はキャストについても紹介していきます。
主人公のヴィクター・フランケンシュタイン役のオスカー・アイザックと怪物役のジェイコブ・エロルディの他、ハインリヒ・ハーランダー役にクリストフ・ヴァルツ、ウィリアム・フランケンシュタイン役にフェリックス・カマラー。
エリザベス・ハーランダー役は「pearl(パール)」シリーズの主演女優として知られるミア・ゴス、アンデルセン船長役にラース・ミケルセンなどが出演しております。
その他、脇役なども合わせれば、チャールズ・ダンス(レオポルド・フランケンシュタイン)やデイヴィッド・ブラッドリー(盲目の老人)などもいます。こうして見ると、結構な豪華俳優になっているのが分かりますね。
↓主人公のヴィクター・フランケンシュタイン(オスカー・アイザック)

↓フランケンシュタインの怪物(ジェイコブ・エロルディ)

↓エリザベス・ハーランダー(ミア・ゴス)

↓ウィリアム・フランケンシュタイン(フェリックス・カマラー)

↓ハインリヒ・ハーランダー(クリストフ・ヴァルツ)

アンデルセン船長(ラース・ミケルセン)

原作との違い:Netflix版「フランケンシュタイン(2025)」
この作品は小説の「フランケンシュタイン」を基にしていますが、原作に忠実なストーリーではなく、所々異なる部分や違う設定があり、「原作とまるで別物」とまではいきませんが、結構原作と違う要素がいくつもあります。
ここからは原作との違いがどれくらいあるのか見ていきましょう。小説を読んだことがない人には必見だと思いますので、最後までご覧ください。
ヴィクター・フランケンシュタインの性格が異なる
まず1つ目は主人公のヴィクター・フランケンシュタインの性格がやや異なることです。今作のヴィクターは作中で「支配的で傲慢な人物」だと言われており、映画内で彼の優秀さを認めている人はいるものの、その支配的な性格を良く思っていない人もいたりします。
一方で原作だと終盤辺りはともかく、序盤では「誠実で家族想いの好青年」といった人柄で、家族からも親友からも信頼されており、基本的に善良な人物として書かれています。
ただし、映画と原作で性格が全く違うというわけではなく、小説のヴィクターも初期の頃の方は家族想いの青年として書かれていますが、科学に手を染めるようになってからは一転して、自己中心的とも言える性格になってしまいます。
そのため、映画でも小説でも自己中心的で傲慢であることには変わりはありませんが、幼少の頃の性格が少し違うといったところです。違いを簡単にまとめると、このような感じ。
映画:父親の英才教育と虐待により、少年の頃から少しずつ支配的な性格になった
原作:両親に愛情を注がれて育ち、誠実で家族想い
登場人物の名前が原作と違う人がいる
次は登場人物の名前が原作と違うという点。全員の名前が異なっているということではないのですが、名字や上の名前が違っていたりする人物が何人かいます。
例えば、ヴィクターの父親は今作だと「レオポルド・フランケンシュタイン」となっていますが、原作だと「アルフォンス・フランケンシュタイン」という名前です。他にも同じような違いを持った人物がおり、下記にまとめています。
・クレール・フランケンシュタイン(ヴィクターの母親)…原作:カロリーヌ
・エリザベス・ハーランダー…原作:エリザベス・ラヴェンツァ
・アンデルセン船長…原作:ロバート・ウォルトン船長
レオポルドを含めるとこれらの4人です。エリザベスだけは苗字が違うだけですが、他の3人は全く別の名前になっていますね。
フランケンシュタイン家の家庭環境
ヴィクターの母親や父親の名前が違うだけでなく、フランケンシュタイン家の家庭そのものが原作と大幅に違っています。
映画だとフランケンシュタイン家は、男爵の爵位を持つ貴族という設定で、ヴィクターの両親は言わば政略結婚で結ばれた夫婦であり、夫婦仲は冷え切っていました。男爵である以外にも父親のレオポルドは外科医でもあり、ヴィクターも将来立派な外科医になるために英才教育を受けていました。
小説だとフランケンシュタイン家は裕福な家庭という設定ですが、貴族ではなく、父親のアルフォンスも外科医ではありません。そのため、ヴィクターは父親から英才教育は受けておらず、基本的に両親に甘やかされて育ちます。
また、ヴィクターの両親であるカロリーヌとアルフォンスも政略結婚ではなく、親友の娘だったカロリーヌをフランケンシュタイン家に引き取る形で2人は夫婦になっており、至って良好な関係です。
その他、ヴィクターにはアーネストという弟もいるのですが、なぜか映画には登場しておらず、末っ子であるはずのウィリアムが今作では次男という設定になっています。小説ではアーネストが次男、ウィリアムが末っ子の三人兄弟です。
映画では息子であるヴィクターに英才教育をし、時には虐待もしていたレオポルドですが、アルフォンスの方はというと、息子を心から愛する良き父親という設定となっています。(ちなみに映画、小説問わず、ヴィクターが母親をマザコン気味に愛しているのは共通の要素だったりします。)
ヴィクターが科学に手を染めるようになった理由が少し違う
これも原作と微妙に違っている要素です。
原作だとヴィクターは母親が病気によって亡くなってしまった際に「死を克服したい」と思うようになり、最初はただの好奇心だったものが、どんどん欲望へとなっていき、最終的に怪物を創るという行為に走っています。
今作だと母親が死産した後、生まれてきた弟のウィリアムばかりを溺愛する父に対し、憎しみのような感情を持つようになり、父親を見返すために「死を克服してやる」という願望を抱くようになっています。とはいえ、母親の死が根本的な理由になっているのは同じではあります。
しかし、原作のヴィクターは母親が病死する以前に「科学」というものに興味を持っており、様々な本や書物を読んでいました。幼少の頃から抱いていた好奇心が母の死により、一気に加速してしまったという流れです。映画だと好奇心というよりかは「願望」や「欲望」に近い感じですね。
また、小説だと最初までは「死を克服して、人類を救いたい」とヴィクターは思っていましたが、今作の場合だと「父親を見返すため」という前提があります。実際に映画の方のヴィクターは怪物を創った後「創造後のことを考えてなかった」と独自しています。このことから小説とは違い、「死を克服することで、人々を救う」という願望は無かったと推測できます。
原作ではヴィクターだけで怪物を創った
こちらは原作と決定的に違っている部分の一つ。
小説だとヴィクターは誰の力も借りずにたった一人で怪物を生み出しているのですが、映画だとハーランダーや弟のウィリアムなどの手も借りて、複数の人たちの協力により怪物を創ります。
小説の場合だと、ヴィクターは17歳の時にインゴルシュタットに旅立ち、その先で科学について学び、墓場から死体を掘り起こし、それらを繋ぎ合わせて怪物を生み出します。原作ではこのような展開になっており、誰の協力も得ずに一人で創っているんです。
一方で映画の方はというと、ハーランダーという人物がヴィクターの科学の才能を見出し、「生命を生み出す」という願望に興味を惹かれ、それを実現するためにヴィクターと手を組むという流れになっています。弟のウィリアムなどの人物も含め、処刑場から被験体を用意したり、健康体の人間の死体をたくさん集め、研究するための拠点とする廃墟も見つけたりなどの描写がされています。
原作と違うと感じつつも、何ら違和感を感じなかったのが、凄いと思える展開でした。(ていうか、こんな膨大な作業や下準備を一人でやったヴィクターがある意味すごすぎると逆に思った。)
ヴィクターとエリザベスの関係性
この点も原作と明らかに違う部分です。
ヴィクターの弟であるウィリアムは、ハーランダーの姪であるエリザベスと婚約をしているのですが、小説内ではエリザベスはヴィクターの婚約者という設定です。
というのも、元々エリザベスは貴族ではなく、親のいない孤児だったのです。身寄りを無くしていたエリザベスをヴィクターの母親であるカロリーヌが引き取り、フランケンシュタイン家の家族として迎えることになります。そして、ヴィクターとエリザベスは幼馴染として共に幼少期を過ごし、成長する頃には互いに恋仲となっています。
映画の方のエリザベスはヴィクターに片想いこそされているものの、最終的に彼をフッています。ウィリアムの婚約者という設定以外にも、昆虫を好むという風変わりな一面があるのも小説と違っています。
その他、小説のエリザベスは慈悲深く、心優しい女性として描かれていますが、今作のエリザベスは昆虫などの変わった生き物に興味を惹かれる、どこか不思議な雰囲気を纏う女性という感じです。私の中でヴィクターとエリザベスが恋仲ではないという設定は驚きました。
怪物が悪堕ちしていない
もう一つ個人的に驚いたのは、フランケンシュタインの怪物が悪堕ちしていないというもの。
本来なら怪物は醜い容貌から大勢の人に恐れられ、人類に拒絶された怒りから純粋無垢だった心が少しずつ悪へと染まっていき、結果的にヴィクターの大切な人々を殺すことになります。
このように怪物は望まずして悪になってしまった悲しき存在なのですが、映画内だと、欲しくもない命を与え、死という救いを与えてくれなかったヴィクターに怒りを抱いているものの、怪物は悪に堕ちたわけではないんです。(作中で度々人を殺すことはありますが…)
とはいえ、ヴィクターに憎しみは抱いているかもしれません。一方で殺意を持っているわけでもないのです。映画のラストシーン辺りを見てみると分かりますが、ヴィクターのことを憎んでいても、本心では父親として愛していたのでしょうか。
小説だと怪物はヴィクターに対し、何の情も抱いておらず、憎しみと殺意しかありません。父親としてはおろか、ヴィクターのことを愛してもいませんでした。
しかし、原作の怪物も最初から悪の存在ではなく、善意と優しさを持ち合わせていましたが、出会う人全員に「怪物」やら「化け物」やら呼ばれた挙句、本当に自分のことを「怪物」だと認識するようになり、ヴィクターに復讐することを決意するのです。
小説では怪物が自身のことを「怪物」だと自覚しているのに対し、今作に登場する怪物は「醜い容姿をしているが、これでも人間」だと認識しています。この辺りが大きな違いですね。
自分のことを「人間」だと思っているのが強く影響しているのか、完全に悪には染まらず、人を殺していることと醜い容姿を持つことを除けば、優しく純粋な心を持つ存在だと言えるでしょう。
怪物がヴィクターに復讐心を抱いていない
怪物が悪堕ちしていないことも個人的にはかなりの驚きでしたが、それ以前に怪物がヴィクターに復讐心を抱いていないことも原作とまた違う新鮮さがありました。
小説だと先程も書いたように、怪物が全人類に失望したことにより、人間を憎むようになり創造主であるヴィクターに復讐することを誓います。そして、ヴィクターの親友と婚約者であるエリザベスを殺害します。
映画でもこういった展開になるのだろうと予想していたのですが、いざ蓋を開けてみれば、ヴィクターに暴力行為はしているものの、彼に復讐心を抱いているわけではなく、復讐を誓っているという感じでもありませんでした。
怪物がヴィクターの弟であるウィリアムを殺害するのは共通なのですが、あれは殺意があって殺したわけではないと個人的に解釈しています。ウィリアム以外にもエリザベスも作中で死亡するのですが、怪物が殺害したのではなく、実質ヴィクターが殺したことになりますよね。(映画を観た人ならご存知のはず。)
私の解釈ではありますが、怪物はヴィクターのことを憎んではいたものの、復讐心は抱いていなかったのではないでしょうか。仮に復讐心を持っていたとしても、ラストシーンでヴィクターのことを許したり、彼のことを「父」と呼ぶはずないでしょう。恐らく本心ではヴィクターのことを愛したかったし、愛されたかったのでしょうね。
原作ではエリザベスと怪物の間に絡みはない
映画内で怪物とエリザベスが互いに親交を深める描写があるのですが、原作だとこの2人に絡みは一切なく、絆を深めるどころか、会話をする描写すらありません。一つ言うのだとしたら怪物がエリザベスを殺害することくらいです。
この2人は映画の中で「母と息子」のような関係になり、お互い特別な感情を抱いているのが見て取れます。これらのシーンは原作を読んでいる私から見たら、少し違和感がありましたが、そもそも今作自体いろんな変更やアレンジがされているためこういう描写があってもいいかもなと思えました。
悲しい展開が続く「フランケンシュタイン」という物語の中で怪物とエリザベスの関係性は少しほっこりできました。(違和感感じてたけど、もっと絡み欲しかったような…)それ故にエリザベスが亡くなってしまうのは非常に悲しかったです。
ちなみに2人の関係は「シェイプ・オブ・ウォーター」の主人公イライザと半魚人と似ていると言っている人もいるようです。(デル・トロ監督の代表作の一つでもあります。)
ハーランダーという人物は原作に登場しない
エリザベス・ハーランダーの伯父という設定で今作にハインリヒ・ハーランダーという人物が登場しますが、実はこの人物は映画版オリジナルの人物であり、原作及び小説には一切出てきません。
作中内でヴィクターと手を組んでいるだけでなく、彼の友人としても描かれていることから推測して、原作に例えるとヴィクターの親友であるクラーヴァルのポジションなのかな?と思いましたが、ハーランダーと共通する要素が少ないため考えにくいように感じます。
とはいえ、映画にクラーヴァルが登場しないため、代わりにハーランダーがその役割を果たしていても不思議ではないでしょう。他にも考えられるのはクレンペ教授とヴァルトマン教授がいますが、この2人も原作において出番が少ない上に共通点があまりないです。
ただ、ヴィクターの弟のウィリアムのように、ハーランダーの元ネタとなった人物は多分いるはずなので、そういった点で見ると、恐らくクラーヴァルがモデルだと推測しています。
ウィリアム・フランケンシュタインの設定
小説では3人兄弟の末っ子であるウィリアム・フランケンシュタイン。今作だと次男という設定として描かれています。ウィリアムはハーランダーの姪であるエリザベスと婚約しており、ヴィクターの科学の研究にも積極的に協力しており、脇役にしては存在感がある人物でした。
ちなみに原作のウィリアムは出番がほとんどないと言っていいほど、少ないです。また、ウィリアムは怪物が初めて殺した人間であり、登場して、割とすぐに殺されてしまいます。
どうやら、デル・トロ監督によると小説だと、あまりにも影が薄いウィリアム・フランケンシュタインという人物を目立たせたかったからあのような設定になったとのことです。(影が薄いと言えば、もう一人の弟であるアーネストもそうなのでは…)
いろんな意味で原作とは別人な設定のウィリアムですが、怪物に殺害されるというのは小説と同じになっています。
一部の人物が映画に出てこない
ウィリアムやエリザベスのように映画ならではの設定がされている人や、ハーランダーのようなオリジナルの人物が登場する中で、逆に小説には出てきて、今作には一切登場しない人物も複数います。以下がそれらの人物です。
・ジュスティーヌ・モーリッツ
・アーネスト・フランケンシュタイン
・ヘンリー・クラーヴァル
・ド・ラセー(しかし、同じポジションの人は映画にもいる。)
・フェリックス
・アガサ
・サフィー
これらの人物が映画に登場しませんでした。結構多いですね。このうち、ド・ラセーという人に関しては今作に出てきた「盲目の老人」に当てはまりますが、一応載せています。
その他、小説に出てきたこのド・ラセーという人は盲目の老人で、フェリックスとアガサという息子と娘がいます。(この2人はいずれも映画には未登場。)
他にもフランケンシュタイン家の使用人であるジュスティーヌも出てこないのは、ちょっと「えっ?」と思ったところです。
彼女は出番が少ないながら、読者に強い衝撃を与えた人物だと思うので、「フランケンシュタイン」という物語において、結構重要な役割の人なのに出てこなかったのは意外でした。
というのも、ジュスティーヌという人は、怪物によって濡れ衣を着せられ無実の罪で処刑されてしまうのです。物語や怪物の設定の都合上、出す必要がなかったのでしょうか?彼女以外にも、ヴィクターのもう一人の弟であるアーネストや、彼の親友であるクラーヴァルも未登場となっています。
この2人のうち、アーネストはあまりに影が薄すぎるから、無理に登場させる必要性がなかったと個人的に思っていますが、クラーヴァルの方はというと、出番がそれなりにある上に、ヴィクターの親友という設定でしたので、出てきてほしかったなと思ってます。
ヴィクターが怪物を拒絶しない
本来ならヴィクターは怪物を創ったとき、そのあまりに恐ろしすぎる容貌を見て、逃げ出してしまうのですが、今作のヴィクターはそうではありませんでした。恐れるどころか、最初こそは実験が成功していたことに喜んでおり、興奮しているほどでした。
怪物のことを拒絶して、見捨てることもなく、普通に優しく接してもいました。この部分も大きな違いの一つとなっていますね。(この辺りの描写も見ていて「あれ?えっ?」の連続で、ちょっとの間頭の中が「?」でした。)
ですが、優しくしていたのはあくまで最初の方で、中盤や終盤になると、怪物のことを「あれ」「恐ろしい物」「邪悪で醜い化け物」と呼ぶようになります。
少し違和感を感じた展開でしたが、原作でもヴィクターが最初から怪物に優しく接していたら…と考えると何とも複雑な心境になります。今作では、原作ではなり得なかった「もしも」を描いたのでは?と言えるかも。怪物の見た目が原作程醜くなかったのも理由だったりするのでしょうか?
怪物の性格などが原作とやや違う部分がある
フランケンシュタインの怪物は基本的に、醜い容姿を持ちながら、感情豊かであり、それでいて口上手かつ交渉上手な一面を持つ存在として描かれることが多いです。また、少々荒い口調で喋ることもあり、自身が憎む相手には容赦ないところもあり、自分のことを「怪物」だということを強く自覚しています。
一方で今作の怪物はというと、大体の部分は共通なのですが、どこか落ち着きがある雰囲気を纏い、一人称が原作と違って「俺」ではなく「私」だったりします。(これは吹き替え版でも同様。)他にも、本来の怪物は自分が「怪物」「化け物」と思われたり、呼ばれたりするのは当然だと考えているのに対し、今作の場合は自分のことを「人間」だと認識しているという大きな違いがあります。
先程も書きましたが、「人間」であると思っているのが怪物の性格などに強く影響しているのか、原作と比べて、優しく思いやりのある存在として描かれているように感じます。それ故にヴィクターに「化け物」呼ばわりされたときはめっちゃ怒ってました。
小説での怪物も生まれたばかりの頃は優しい性格の持ち主でしたが、人間に恐れられるうちに悪へと変わってしまい、終盤辺りでは「悪役」のような存在になっています。本人も自身が善の存在から悪になったことを理解しており、「本当の怪物になってやる」という流れになっています。
その「本当の怪物」になってからは創造主であるヴィクターの大切な人々を次々と奪い、彼が苦しんでいる姿を見てニヤける、彼を北極圏まで追い詰めるなどの行動を起こします。
こうして見ると「人間」だと認識していることが、今作の怪物を完全な悪にしなかった一番の理由であると考えられますね。小説でも怪物が少しでも自分のことを「人間」だと思っていれば変わっていたかもしれません。
ヴィクターと怪物の関係が異なる
基本、ヴィクターと怪物は「創造主と創造物」「血の繋がりのない親子」といった関係性ですが、原作を見ている限り、「親子」と呼ぶには険悪すぎる関係であることが多いです。
まず、ヴィクターは怪物のことを「悪鬼」「悪魔」「化け物」としか思っておらず、息子としてはおろか、生き物としても認識していません。同じく怪物もヴィクターが「創造主」であることを認めてはいますが、父親としては見てません。
お互いがお互いを憎んでいるのに、「創造主と創造物」という関係である以上、切りたくても切れない縁で結ばれています。小説の中では極めて歪な関係を持つ2人ですが、映画の中だと一応「父と息子」という関係性となっています。
小説と違いヴィクターは怪物の姿を見ても拒絶していないのが大きいでしょうね。ただ、最初は息子のように思っていたヴィクターでしたが、段々と怪物のことを邪魔に思うようになり、同時に不気味な生き物として見るようになります。時には躾をするために虐待したり、屋敷中に火を放ち殺そうとするなど、原作以上に扱いは酷いです…。
それでも、僅かながら怪物に父親としての情はあったらしく、死に間際怪物に対して、虐待をしてしまったこと、殺そうとしたこと、化け物と呼んだことを謝罪しており、これらの過ちを認めています。そして、最終的に怪物のことを「息子」と呼んでいます。不気味な存在だと思いつつも、自分の名前を何度も何度も呼んでくれた怪物に愛着があったのでしょうか?
このように小説内では「親子」ですらなかった2人が、お互いを傷つけ合いながらも、「父と息子」として描かれているのは、原作を読んでいる私からしたら少し泣けてしまう要素でした。小説のヴィクターと怪物の関係が「お互いがお互いを憎しみ合う」関係なのだとしたら、今作の2人は「不器用にしか相手を愛せなかった」と言えるのではないでしょうか。
ヴィクターが自分の過ちを認めている
小説のヴィクター・フランケンシュタインは、親友のクラーヴァルと恋人のエリザベスを怪物に殺害されたのち、怪物を自らの手で殺すために追い詰めようとしますが、逆に自分が怪物に迫られ、最終的に衰弱死してしまいます。
この衰弱死するというのは今作でも同じになっていますが、一番の違いはヴィクターと怪物が和解しているかしていないかという点。小説のヴィクターはまず、前提として自分の過ちを一切認めず、最後まで怪物のせいだ、全部あいつの責任だと決めつけています。挙句の果てに自分のしたことは間違いではなかったと信じて疑いません。
生命を生み出したことを後悔しつつも、その生命を生み出してしまったことが悲劇の始まりだということに気づいてないのです。ですが、今作では一変して、ヴィクターは自分の罪と過ちを死の間際に認めます。そして、原作では叶わなかった怪物との和解を見事成し遂げます。更には「醜い化け物」としか思ってなかったはずの怪物を「私の息子」と呼んでいます。
小説では「私は間違ってなどいない、すべての責任はあいつ(怪物)にある」と信じて疑わず、自分の大切な人々が死んでいったのは全部怪物のせいにするなどの無責任ぶりを見せていましたが、映画だと怪物のことを虐待しつつも、最終的に自分の過ちを認めているので、完全に人間性を失ったわけではなかった模様。(と言っても、怪物にも非があるのは間違いではないのですが…)
物語の終末の違い
やはり、この部分が原作との一番の違いでしょう。
小説での終末を軽く説明します。ヴィクターは怪物に北極圏まで追い詰められた後、どんどんと体が弱っていき、衰弱死してしまいます。無論、怪物もヴィクターの遺体を目にしており、彼を殺害することが目的だった怪物は自身の役目を失ってしまいます。
そして、「自分の仕事は終わった…」と言い、自らの体を業火に包み死ぬことを告げ姿を消します。怪物のその後を知る人は誰もいない。こういった終末となっています。望んでもないのに命を吹き込まれ、愛されたかっただけなのに大勢の人から恐れられ、創造主にも見捨てられ、ついには本当の怪物となり、ヴィクターに復讐しようとしたが、その復讐も成し遂げれない…怪物の立場になって見てみるとあまりに救いのない最後となっています。
次に今作の終末について。
怪物がヴィクターを北極圏まで追いかけることと、ヴィクターが衰弱死してしまうのは共通となっていますが、ヴィクターは死ぬ直前、自分の過ちを認め、怪物のことを「息子」と呼び、そして自分を許して生きろと告げます。怪物の方もヴィクターのことを「父上」と呼び、彼の最期を看取ることになります。小説だと、許すことも、分かり合うこともなかった2人でしたので、このような展開になったのは驚きつつも、少しだけ救いの感じられる最後だったので、個人的には「良かった…」と思える終末でした。
その他、原作だと怪物は自ら死ぬことだけを告げ、姿を消しますが、今作の怪物は明確に「死ねない」ことが言及されており、そのため悲しみと苦しみを背負いながら自分を許して生きていくということになります。(小説でも同様の設定である可能性は大。)あまりにも救いのない終末を迎えた怪物でしたが、今作ではほんの少しだけですが、救いの要素があったので、ホッとしました。
ハッピーエンドと言えるかは微妙ですけどね…。(見方によってはビターエンド?)
原作と共通する要素:Netflix版フランケンシュタイン
一見すると原作との相違点がたくさんあるように感じますが、共通している要素や部分も少なからずあるので、次はそちらを紹介していきます。
死体を繋ぎ合わせて怪物を生み出した
まず、一つが死体を繋ぎ合わせて怪物を創り出したという点。
当然と言っていいですが、これは流石に同じでした。ただ、小説だと墓場から死体を掘り起こしていましたが、今作では処刑される人間を被験体として使ったり、戦争で戦死した人たちの死体を集めたりなどの、細やかな違いはありました。
また、雷を利用することによって、生命を吹き込んだという描写もそのまま再現していました。小説だとどうしても文だけになってしまうため、この辺りのシーンは理解しにくかったので、映画ならではの良さがありましたね。
怪物がある一家の家で言葉を学ぶ点が同じ
生まれた(正確には目覚めた?)ばかりの怪物は外の世界に踏み出して、森の中を彷徨っているうちに一つの小さな家を見つけます。その家はド・ラセーという名前の盲目の老人と、その息子と娘のフェリックスとアガサが住んでいました。
この家族に興味を持った怪物は、家の中に姿を隠しながら一家の観察をするうちに、言葉や人間というものを覚えていきます。今作でもこの部分もやはり同じになっていました。これらの描写は「フランケンシュタイン」の物語の中で注目すべき要素の一つとなっています。というのも、世界や人間のことを何一つ知らなかった怪物がこの一家と出会ったことにより、人間性を身に着けていくからです。
この家族の存在を知るうちに、怪物の中に思いやりや優しさというものが芽生えていき、少しずつ彼は人間になっていくのですが、それと同時に「悲しみ」や「苦しみ」「憎しみ」という負の感情も理解してしまったのです。怪物にとってはこの家族はかけがえのない存在と言えますが、実は怪物を一番最初に拒絶したのもこの一家という皮肉な設定でもあります。
ですが、映画だと少し変更やアレンジがされており、小説と比べて盲目の老人と怪物の関係性が結構深いです。簡単に表すと、友達のような、父と息子のような関係となります。その他、今作の怪物が自分のことを「人間」だと認識できているのは、盲目の老人が彼のこと「立派な人間」と言ってくれたからでもあります。小説の場合だと、怪物はド・ラセーと関係を深める前に、彼の息子のフェリックスと娘のアガサに拒絶され追い出されてしまうので、結果的にただの他人でしかありませんでした。
ただ、作品問わずこの一家の存在が怪物の人生を大きく動かしているのは同じですね。
ヴィクターに「伴侶を創ってくれ」と頼むのも共通
出会う人全員に化け物扱いされた怪物は、創造主であるヴィクターに「伴侶を創ってくれ」と頼むのも共通となっています。頼んだ理由は小説でも映画でも「一人で生きていくのは辛いから」ということになっています。
原作のヴィクターはこの頼みをされたとき、すぐさま断ろうとしますが、怪物の心情や苦しみなどに共感してしまい、他にも怪物の交渉が上手かったのもあり、一度はこの約束を引き受けます。
そして、ヴィクターは女の醜い怪物を創り始めようとしますが、「2人の間に子供ができたら?」「同じ怪物が増えるのでは?」「女の怪物があれを受け入れるのか?」と次々と疑問や不安が溜まっていき、創り途中だった女の怪物を引き裂いてしまいます。怪物はこの光景を目にしてしまい、ヴィクターに激怒します。
この出来事が発端となり、怪物は明確にヴィクターに復讐心と殺意を抱くようになります。そして、怪物は早速ヴィクターの親友であるクラーヴァルを殺害するという展開です。
今作では少し違っており、ヴィクターは女の怪物を創ることもなく、怪物の頼みをすぐに断ります。映画の都合上、女の怪物を創る描写も入れるとなると、上映時間が長くなってしまうからでしょうね。
今作のテーマと見どころ:Netflix版フランケンシュタイン
デル・トロ監督によれば、この作品のテーマは「父と子」であるとのことですが、私が見た解釈では、それら以外にも「死」「不死であることの恐ろしさ」「許し合い」「成長」などもテーマになっているように感じました。特に言葉や世界のことを何も知らなかった怪物が、ある一家の存在によって言語や人間性を学ぶのは、まさに「成長」と言えるでしょう。
その他、原作では決して実現できなかったヴィクターと怪物がお互いを許したり、不死であることの葛藤や苦悩を描いているのも考えさせられます。
この作品の見どころはやはり、原作の「フランケンシュタイン」とはまた違った視点で描いているというところでしょう。原作を読んだことがある人には意外と思う場面も多いと思いますが、それでいてすごく新鮮な映画なのではと思います。もちろん、この作品の見どころは一つだけではなく、他にも19世紀の世界観や街並み、服装なども凝っており、近世の雰囲気も充分に楽しめると思いました。
私の場合だと、見どころだなと思ったのは、怪物の設定や人物像です。怪物は不気味な容姿を持ちながらも、生まれたばかりの頃は「子供」あるいは「赤ん坊」のように純粋無垢な存在で、原作では見れないような怪物の可愛らしい一面が描かれているのが個人的に良かったです。
また、後半では赤ん坊のように無邪気で純粋だったイメージから一変して、恐ろしく、高圧的でまさに「怪物」という印象になるというギャップもハンパなかったです。見ていて、「あの可愛らしさはどこにいった⁈」と思うほど、人格変わります。
ヴィクター・フランケンシュタインは相変わらず無責任ぶりを見せてくれますが、原作のクズとも言える人柄とは違い、どこか憎めないような部分もあって、嫌いになれませんでしたね。
彼は幼少期に母親を亡くしてしまったが故に、誰かを愛することができなくなってしまったのでは?と解釈しているので、それが原因で怪物のことを「息子」だと思えなかったのではと思うと、彼も怪物と同じくらい哀れに思えてしまいます。
そういうのもあり、最終的にヴィクターと怪物がお互いを許すことができて良かったなと心から思えました。今作は原作「フランケンシュタイン」を知っても知らなくても、楽しめる映画だと個人的には思います。また、デル・トロ監督の作品が好きな方などには必見だと思えました。
主演のオスカー・アイザックの演技はもちろん見どころの一つとなっていますが、その他、複雑かつ悲しい運命を背負った怪物を見事演じているジェイコブ・エロルディにも注目です。特に前半の子供らしい可愛らしさと後半の恐ろしさのギャップがとにかく凄いです。
新人俳優でありながら、フランケンシュタインの怪物という一筋縄ではいかない役柄を演じたエロルディの実力も拝見できます。ストーリーや雰囲気だけでなく、俳優たちの演技も本当に見どころなので、見応えのある作品となっています。
ミア・ゴスが一人二役演じている理由:Netflix版フランケンシュタイン
これはキャストを見ずに視聴した人は気づかない部分なのではないでしょうか。実は今作のエリザベスを演じたミア・ゴスはヴィクターの母親であるクレール・フランケンシュタインも演じています。つまり一人二役です。これは偶然ではなくデル・トロ監督による意図したものだと考えられるのです。
何故、エリザベスとクレールが同じ俳優なのか、それはヴィクターがエリザベスに対して亡き母親の面影を感じていたのではないかという考察があります。作中内でそういった言及や描写があるわけではないですが、同じ人が演じているのならこう考えることもできるのです。
今作でのヴィクターは父親に英才教育と虐待を同時に受けていたため、恐らく母親が唯一の心の拠り所だったのでしょう。しかし、その母親が出産をしたことにより亡くなってしまい、ヴィクターにトラウマを植え付け、「死」というものに恐怖を覚えるようになります。
そして、トラウマと心の傷を抱えたまま成長したヴィクターの前に現れたのが、母親と瓜二つなエリザベスだったということになります。ヴィクターは作中内でエリザベスに想いを寄せていることが分かりますよね。一目惚れというのも充分にあり得るのですが、母親と瓜二つだったから一気に惹かれたというのも推測できます。
しかし、ヴィクターはエリザベスを銃で撃って殺してしまいます。(正確には怪物を撃とうとして、エリザベスが庇った結果となっていますが…)ヴィクターが本当にエリザベスに母親の存在を重ねていたのだとしたら、これは彼にとって決して許されない事態でしょうね…。
とはいえ、こういう細かい部分なども意識してキャスティングや制作をされているのだと考えると本当にすごいですよね。
↓ヴィクターの母親のクレール・フランケンシュタイン。

↓エリザベス・ハーランダー。

「死ねない」という恐ろしさ:Netflix版フランケンシュタイン
ストーリーや世界観の雰囲気以外にも注目して欲しい点が一つ。それは「死ねない」という恐怖、そして恐ろしさです…。
人間一度は「死にたくない」と思うことがあるでしょう。同じく小説および今作のヴィクター・フランケンシュタインも「死」を恐れる人間の一人です。
ヴィクターは母親を失ったことにより、「死」を克服しようと科学に手を染めることになり、その科学によって生み出された怪物はヴィクターが理想としていた「不死」そのものでした。しかし、怪物は自分が「不死」であることを嫌い、そしてそのことを何よりも苦悩するのです。何故なら、死なないということはどれだけ苦しい思いや悲しい思いをしても死ねないのです。
ヴィクターによって生み出された怪物はどんな大怪我を負ってもすぐに治ってしまい、ダイナマイトの爆発に巻き込まれても、まだ生きているのです。つまり「死ねない」=「いろんな苦痛を背負っていかねばならない」ということなのです。人という存在は深い苦しみや悲しみを背負い、生きる希望を無くしてしまったとしても、唯一救いとなるものがあります。そう、それは「死ぬこと」です。
ですが、怪物はその唯一の救いすらも与えられなかったのです。それ故に「死ぬこと」を何よりも望んでいるとも言えます。「死」を恐れるあまり、それを克服することを理想とするヴィクターと、「不死」であることに悩み、「死」を何よりも欲する怪物。このように2人は対照的な思考を持っています。
ヴィクターのように「死」を恐れている人は世の中にたくさんいるでしょう。しかし、いざ「不死」を手にしたとしても、今度は怪物のように「死ねない」ことに苦悩する…なんとも複雑で皮肉ですね…
また、デル・トロ監督は「不死」を嫌っていることで知られているため、彼が描いた作品だったからこそ、怪物の悲しみと苦悩を表現できたのでしょうね。
ヴィクターは怪物のことをどう思っていた?:Netflix版フランケンシュタイン
この疑問は今作を視聴した人なら少しは思った点だと思います。
ヴィクターは怪物の存在をどう見ていたのか、そして自分にとってどんな存在だったのか。私から見た解釈と作中の描写などから考察していこうと思います。
まず、前提としてヴィクターは怪物が生まれたばかりの頃は優しく接していました。それはまるで、父親が赤ん坊の相手をするかのように。しかし、自分がどれだけ手を尽くしても、怪物は「ヴィクター」という言葉しか覚えず、おまけに知性も知能も感じられないことに段々と苛立つようになります。
そして、怪物のことを「あれ」あるいは「ケダモノ」「化け物」「獣」と呼ぶようになり、もはや生き物として見なくなっていきます。ヴィクターの口から語られていましたが、どうやら彼は「完璧な存在」を生み出すことを理想としていたらしく、生まれてきた生命はきっとそのような存在であるはずと期待していたことが分かります。
しかし、生まれてきた怪物は子供のように純粋な生き物で、ヴィクターが理想としていたものとはかけ離れていました。最初こそは優しくしていましたが、躾をするために怪物に乱暴な扱いをするようになります。そう、かつて自分の父親にされていたように…。そして、よーく注目して欲しい点があります。怪物は不気味で恐ろしい容姿を持ちながらも心は生まれたばかりの子供です。
つまり、極端に言うならヴィクターは生まれたばっかりの赤ん坊に暴力を振るっているようなものなのです。この時からもう「息子」だとは思っていないでしょう。そして、とうとう邪魔でしかなくなったのか、ヴィクターは屋敷中に火を付け、怪物を殺そうとします。ですが、怪物が何度も何度も「ヴィクター」と呼ぶうちに一度引き返そうとしました。(しかし、扉を開けた瞬間吹き飛ばされたため、未遂に終わってしまいますが)
このシーンで屋敷が火で燃えている中、怪物を助けに行こうとしたので、邪魔だと思っていながらも父親としての情を捨てきれてなかったのではと取ることもできます。ただ、それでも不気味な存在と思っているのは変わりないらしく、怪物と再会した際も彼を「醜い化け物」と罵っています。
終盤辺りでは明確に怪物に対して殺意を抱いており、ダイナマイトを使ってまでも殺害しようとしています。ですが、ヴィクターは自身が死ぬ直前、怪物に今までしてきたことを全部謝罪したのです。この展開は唐突だと感じた人も恐らくいるでしょう。私も、ヴィクターがなぜ怪物に謝ろうと思ったのか分かりません。
考えられるのはヴィクターが怪物の悲しみや苦しみを知っていくうちに、少しずつ自分がしてきたことに罪悪感を覚えた、他には最初から愛情はあったが、それを上手く表現できなかった、あるいはどっちとも…というところでしょうか。ここ辺りの心理描写はかなり曖昧で分かりにくいですが、少なくとも怪物に父親としての愛情が僅かながらあったのは間違いないと思います。
私が見るに後者の説が有力なのではと解釈しています。まず、ヴィクターは父親に虐待されるという幼少期を送っていたため、愛情の注ぎ方が分からなかったと考えると自然です。
他にも、自身が片思いしているエリザベスが、怪物に関心を持っていることから、彼にある種の嫉妬心を抱いていた可能性もあります。ヴィクターはエリザベスを積極的に口説こうとしますが、最終的に彼女に拒絶されており、これが彼にとってはかなりショックだったようです。
自分は拒絶されたのに、不気味で知能もない怪物はエリザベスに興味を抱かれている…ヴィクターにとってはこの事実が許せなかったのでしょう。「なんであいつばっかり…!!」という感情があったのだと思います。不気味だと思うと同時に怪物に対する嫉妬心もあったからこそ、余計に愛せなかったのだろうと私は推測しています。
いろんな感情が絡み合い、いつしか「息子」ではなく「化け物」としか見れなくなってしまったと考えることもできるのです。でも、本心では愛したかったという葛藤があるように思えました。また、ヴィクターが怪物にしていた行為や扱いは、かつて自分の父親にされていたこととまるっきり同じなのです。死の間際、ヴィクターは少しずつその事実に気付き、自分の非を認めることができたのだと思っています。
原作のヴィクターは自分の過ちを一切認めず、最後まで怪物の責任だと決めつけるなどというあまりにも無責任かつ身勝手な最期を迎えています。原作のヴィクターを「自身の子供を見捨てて、見向きもしなかった毒親」なら、今作の彼は「息子を愛したかったのに、愛せなかった父親」だと見ることもできます。

怪物はヴィクターのことを愛していたのか:Netflix版フランケンシュタイン
ヴィクターは僅かながらも父親としての情を持っていたのが推測できますが、一方で怪物はどうなのでしょうか?この点も私の解釈と作中内の描写から考察していこうと思います。
怪物はヴィクターの時とは違い、生まれたばかりの頃は本当に無垢な存在で、愛情だとか、父親とか、息子とかそういう概念は恐らく皆無で、何も分からない状態です。要するに赤ん坊に近い存在です。そのため、心がまるで子供のようであるため、最初の頃は同じ言葉しか覚えませんでした。
同じ言葉しか言えないのなら、当然この時点では感情なども無いです。そのため、ヴィクターに情を抱ていたことすら曖昧となっています。ただ、感情が無いながらも、自分のことを虐待してきた、ヴィクターのことは少なくとも好印象ではないでしょう…。
怪物は一度ヴィクターに殺されかけますが、運良く屋敷から逃げ出すことに成功し、その後は森の中を彷徨い、ある家族の家を見つけます。怪物はその先で言語や人間性を学び、盲目の老人とも親交を持つようになります。怪物の視点から見れば、父性を感じていたのはヴィクターではなく、この盲目の老人である可能性の方が高いようにも思えます。
盲目の老人のことは明確に「友達」あるいは「自分にとって特別な人」と思っていたのは確かで、一方でヴィクターの場合は望みもしない命を勝手に与え、おまけに「死」という救いすら与えなかった相手なので、明らかに悪印象しかないでしょう。実際に彼に対して憎しみを抱いていますからね。
ヴィクターのことを「創造主」であることは認めているようですが、序盤から終盤にかけて、怪物がヴィクターに対して何らかの情を抱いている描写は皆無となっており、それどころか、「痛めつけないと言うことを聞かない」という理由から、彼に過激な暴力を振るうなどの行為もしています。
ただ、怪物の身になってみると「死」を与えられず、その上に自分に優しく接してくれた数少ない人物のエリザベスをヴィクターに殺される、などのこともされているため、憎むのも仕方ないのですが…。このように、憎んでいるようにしか見えませんが、ヴィクターが今までの過ちをすべて謝ったときは「お前を許す」と言っています。それと同時にヴィクターのことを「父上」とも呼んでいます。(この時、怪物が若干涙目になっていたりします。)
ヴィクターが死亡する直前のシーンなどはとにかく唐突かつ曖昧なので、考察がしにくいですが、考えられるのはやはり「生みの親」である以上、憎んでいながらも嫌いになれなかったというもの。あるいは自分の存在を見てくれるのがもうヴィクターしかいなかったからなのか…。
もう一つ考えられるのは今まで「化け物」「あれ」としか呼ばれなかった中、最初の最後でヴィクターが自分のことを「息子」と呼んでくれたのが、この上なく嬉しかったということ。そして、自分を許して生きろと言ってくれたことが怪物の中に響いたのではと解釈しています。
ヴィクターを愛していたかどうかは分かりませんが、恐らく怪物は愛していたというより「愛されたかった」という気持ちの方が強いと思いました。怪物もヴィクターと同じで「愛すること」が何のことなのか深く理解していないでしょうから。
実の親にどれだけ虐待されたり、冷たくされたりしても、完全に嫌いになれない子供がいるように、今作の怪物も似たような心境だったのではと個人的には思いました。一つ言えるのは、ヴィクターのことを憎むのではなく、本当は「父親」として見たかったのは確かでしょう。

怪物とエリザベスの関係は?:Netflix版フランケンシュタイン
ヴィクター以外にも怪物とエリザベスの関係性もかなり気になるところですよね。原作では絡みが一切無かったこの2人。2人は一体どのような関係なのでしょうか。
例えるのなら、恐らくこの2人は「母と息子」のような間柄なのだと私は解釈しています。怪物にとって、ヴィクターの存在が「創造主」または「父」なら、エリザベスは「母」のような存在だと思っています。というのも、エリザベスが怪物に関心を持ったのには理由があり、それは彼女が長年純粋無垢な存在を求めていたことが発端です。
エリザベスは初登場した時、ヴィクターに対してこう語っています。
このセリフから分かるように、エリザベスは戦争や殺し合いという、いかにも汚い世の中に嘆いてることが分かります。彼女が昆虫という不思議な生き物に惹かれるのは、穢れのない純粋な生き物だからなのでしょう。そんな純粋で無垢な生き物を何よりも愛する彼女の前に現れたのがあの怪物だったというわけです。
怪物はエリザベスが求めている純粋無垢な存在そのもので、彼女がそんな彼に興味を持つのは自然なことだったのでしょう。エリザベスはヴィクターと同じように怪物に言葉を教えていました。怪物の方もエリザベスに対して何らかの感情を抱いており、その証拠として、彼女が亡くなってしまったとき「彼女を追って死にたかった」と発言しています。
純粋な生き物や存在を何よりも愛するエリザベスだったからこそ、ヴィクターの支配的で傲慢な性格や人柄を受け入れることができなかったのだと考察できます。(ただ、彼女にはウィリアムという婚約者がいるのも大きく関係していますが…)
ちなみにエリザベスは作中内でヴィクターのことを「異様で奇怪な男」「何でも支配しようとし、人を弄ぶ暴君」と評しています。その他、ヴィクター本人の前で「あなたは心というものを理解していない」「神を演じる怪物」とも言っています。少なくとも好印象ではないみたいですね…。
一方で怪物の方はというと「生まれ変わり、単純で純粋になった。普通の人よりね」と評価していました。ヴィクターが「あれに知性の輝きはない」「同じ言葉をひたすら繰り返すだけ」という発言に対して、エリザベスは「今はその言葉がすべてなの」と怪物を庇ってもいました。
怪物が行方不明になってしまってからも、エリザベスは彼の存在を忘れられなかったようです。それを表すかのようにエリザベスは怪物から貰った葉っぱを大事に保管してます。この2人がお互いにどんな感情を抱いていたのかは分かりかねないですが、悲しい運命を背負った怪物にとって、エリザベスは彼の数少ない理解者であることは間違いです。

本当の「怪物」は誰か…:Netflix版フランケンシュタイン
「フランケンシュタイン」という物語において長年疑問に思われていること、それは「ヴィクターとクリーチャー、どっちが本当の『怪物』なのか」ということ。
「フランケンシュタイン」という物語の内容を詳しく知らない人は当然「怪物の方でしょ?」と思うでしょう。しかし、原作及びこの作品の描写を見てる限り、そうとも限らないのです。
醜い容姿を持つが故に「化け物」扱いされざるを得ない怪物ですが、彼は生まれた時から「悪」というわけではないということ。むしろ、人間よりも人間らしい性質を持って生まれてきた存在とも言えるのです。だったら、どっちが「怪物なの?」という結果になりますよね。
総合的に考えて、ヴィクター・フランケンシュタインこそが本当の「怪物」と呼べるのです。原作及び今作で平穏だった日常が壊れてしまったのは元々、ヴィクターが「死を克服して、神をも超える存在となりたい」という身勝手な野望が原因です。今作では最終的に自分の非を認め、怪物に謝罪しているので、まだマシな方ですが、小説だともっと酷いです。
↓に原作のヴィクターの行動をまとめていきます。
・「神をも超える」という勝手すぎる理由で生命を生み出すが、怪物のあまりの醜さに逃げ出す。
・自分で創っておきながら、「醜いから」「美しくないから」と言って、怪物に愛情を注がず、放ったらかし。
・「信じてもらえない」という前提があったとはいえ、家族に怪物の存在を明かさずに、何もなかったことにして、普通の生活に戻ろうとする。
・怪物に伴侶を創ることを求められるが、創ってる途中でやめる。
・上記の件で激怒した怪物に親友を殺される。それなのに、自分にも責任があることを自覚していない。
・結婚式の日に新妻を殺害される。それでも、自分の罪を認めていない。
・自身が死ぬ直前「自分が怪物を創ってしまったが故にこうなった」という事実を一切認めず、自分は無実だと信じて疑わない。
・怪物の存在を無視して、愛さなかった結果、自分の大切な人々を次々と奪われているというのに、すべての元凶は怪物だと言い張る。
・挙句の果てに「自分は何も間違っていなかった」と言い、怪物に一切謝罪もしない。自分の過ちも何一つ認めない。
と、まぁこういう感じなんですよね。小説だと。要するに都合が悪くなると全部怪物のせいにしてる割には、その怪物を創ったのは自分であることに気づいてないんですよね。
ヴィクターが怪物を創らなければ、または創ったとしても愛情を注いでいれば、彼の日常は壊れなかったし、家族も生きていたわけです。「自分は何も悪くなどない」と心の底から信じていることが伺えます。
けれども、これらの描写を見てる限り完全に「自業自得」でしかないんですよね。今作のヴィクターも怪物を虐待したり、焼いて殺そうとしたりなど、こっちも大概酷いですが、最終的に自分の罪を認めているので、まだマシな方ですし、人間性も感じられました。
このように、自分勝手すぎる願望から生命を生み出したのに、醜い容貌に怯え、愛情を注がず、自分の行いや過ちを何一つ認めないという、ヴィクターのような身勝手で傲慢な存在こそ、本当の「怪物」と言えるでしょう。
一方でヴィクターが生み出した怪物の方はというと、小説だとこのような感じ。
・鳥の名前や植物の名前を覚えたり、それらの生き物を尊く感じる。
・ある一家の家に隠れて、言語を学び、人間が何なのか知っていく。
・その家族が困っていると、影で手助けしたりする。(薪を用意してあげるなど。家にある食べ物を盗んで食べていたが、食べるものに困っていることを知ると盗むのをやめる。)
・「若きウェルテルの悩み」をはじめ、様々な文学を読み、少しずつ言葉の意味を理解していく。
・限られたものや資料などから、11ヶ月でフランス語とドイツ語を覚える。
・川で溺れている子供を助ける。
・言葉の一つ一つに説得力があり、交渉上手。
・冷静沈着であり、憎い相手であるはずのヴィクターをすぐには殺そうとしなかった。
・自分が悪になった経緯を理解しており、ヴィクターの死後、自身が犯した罪を認める。
醜い容貌を持っている怪物ですが、生まれたばかりの頃は自分以外の人を思いやれる優しさを持ち、人間の仲間になりたいから、一生懸命言葉を覚えようとするなど、努力家であり頑張り屋な一面もあるのが分かります。
また、周りから「化け物」扱いされたことで全人類を憎んでいる割には、殺戮などはしていません。むしろ「伴侶を創ってくれるなら、今後人間たちの前には現れない」と誓うなどもしています。(ただ単に人間と関わりたくないというだけかもしれませんが)
周りの人から忌み嫌われたことにより、悪へと堕ちてしまった怪物ですが、逆に誰かに愛されていれば、優しい性格のままだったことは言うまでもないでしょう。ただ、悪に堕ちてからも、自分がやっている行為や行いは「悪」であるということを自覚しているのはヴィクターとの違いですね。
怪物のその後の人生は?:Netflix版フランケンシュタイン
怪物は死ぬことができないが故に、最終的に膨大な苦しみと悲しみを背負い生きていくということを決意して、映画は幕を閉じます。創造主であり父でもあるヴィクターに「自分を許して生きろ」と告げられた怪物ですが、彼のその後の人生はどうなってしまうのでしょうか。
原作だと死ぬことだけを告げ、怪物のその後を知る者は誰一人としていませんでしたが、今作だと明確に生存していることが分かるため、考察や推測の余地があります。怪物は一体この先どんな運命が待っているのか。まず、前提として悲惨かつ苦痛だらけの人生であることは言うまでもないと思います。
怪物は明らかに人間とは違う、容貌も不気味で醜い、身体能力も人間離れしているため、周りの人の視点から見ると間違いなく「異質」な生き物であるはず。怪物は純粋で優しい心を持った存在ではありますが、同時に「人間ではない」ということも否定できず、怪物でも人間でもない半端者の彼に居場所があるとは考えにくいです。
恐らく、怪物自身は自分が人間と相成れない存在であることを理解しているはず。もし、そうだとしたら、森や人気の少ない場所で暮らすか、運良く自分を理解してくれる人に出会うかのどっちかだと思われます。どの道、幸せになれるような未来は無さそうですね…。
また、もう一つ考えられる、恐ろしい未来もあります。それは原作の怪物と同じように、人間から恐れられたことで悪の心に染まり、本物の「怪物」になってしまうということ…。これも充分に考えられます。今作は小説と比べたら救いのある最後だったのは確かなのですが、今作の「その後」のことを考えると、こういった恐ろしい未来も推測できるのです…。
もし、本当の「怪物」となり、その上全人類に復讐心も抱いてしまったら、殺戮を繰り返すというのもあり得るかも…。伴侶を創ってもらえなかったのと、誰一人として彼を理解してくれる人もいないので、そのうちこういう結末が待っているのも否定できませんよね…。
ただ、作中内で怪物が盲目の老人と親交を深めたように、可能性は限りなく低いですが、彼を理解してくれる人が現れるというのもあるでしょう。見る人側としてはこっちの未来であって欲しいですけどね。怪物のその後が分かるのは恐らくデル・トロ監督だけだと思うので、この辺りは私たち視聴者が考察か想像するしかありませんよね。まとめると、怪物のその後の人生であり得る展開は以下の3つでしょう。
①森や洞窟など、人の少ない場所で隠れて生きていく
②人間から忌み嫌われたことで心が悪に染まり本物の「怪物」となる最悪な未来
③運良く怪物を理解してくれる人が現れる
私としては一番可能性が高いのは①で、次点で②だと思っています。③に関しては奇跡を祈るしかないって感じです。
怪物たちを演じた歴代俳優たち:Netflix版フランケンシュタイン
それでは最後に怪物やヴィクターたちを演じた歴代俳優たちを紹介していこうと思います。
「フランケンシュタイン」の映画の歴史は古くからあり、その歴史はなんと1823年から現代まで続いています。
特に有名なのはジェームズ・ホエール監督の「フランケンシュタイン」ですが、それら以外にもベラ・ルゴシやチャールズ・オーグルが演じた怪物などもいますが、全員紹介すると流石にキリがないので、ここでは、ボリス・カーロフ、ロバート・デ・ニーロ、そしてルーク・ゴスが演じた怪物をメインに紹介していきます。
まず、一人目は1931年に公開された映画で怪物を演じたボリス・カーロフ。
カーロフ氏が演じた怪物は「フランケンシュタイン」の映画作品の中で一番知られているでしょう。その印象的な怪物のデザインやビジュアルが一気に話題となり、ボリス・カーロフを代表する作品にもなったほどです。
ちなみに同作にはもちろんヴィクターも登場しているのですが、何故か名前がヘンリー・フランケンシュタインとなっています。ちなみに彼はコリン・クライヴが演じています。他にもエリザベスも同じく出てきます。演じたのはメイ・クラークです。
↓ボリス・カーロフが演じたフランケンシュタインの怪物。

お次はロバート・デ・ニーロが演じた怪物。
こちらの映画はケネス・ブラナーが監督/主演を務め、1994年に公開された作品となっています。上記の怪物と比べ、容姿は更に醜いものとなり、体中にはツギハギだらけという原作に近い容貌です。
この映画のヴィクターは上記にも書いてる通り、「ハムレット」や「名探偵ポワロ」の主演俳優として知られるケネス・ブラナーが演じています。エリザベス役はヘレナ・ボナム=カーターです。
↓左がブラナー演じるヴィクター。右はエリザベス。

↓デ・ニーロが演じた怪物。

上の画像を見てみると分かる通り、いかにも恐ろしい容姿にデザインされています。デル・トロ監督の怪物は不気味な存在として描かれていますが、外見は結構美形な方なので、同じ怪物なのに、似ても似つかないですね。
↓今作。

最後に紹介するのは2004年にテレビにて放送された「フランケンシュタイン」で、ミュージシャンとしても活動している、ルーク・ゴスが演じた怪物。
これまでの怪物は醜く恐ろしい容姿であることが多かったのですが、この作品だと一変して、比較的人間の男性に近い見た目になっています。ツギハギどころか、傷一つなく、肌が白いこと以外はほぼ人間です。(本当に怪物なのかこれ…と思うほどに)
この映画ではアレック・ニューマンがヴィクターを、ニコール・ルイスがエリザベスを演じています。
↓ニューマンが演じたヴィクター。

↓ルーク・ゴス演じる怪物。デル・トロ監督の怪物と所々似ているような…?

このように、同じ怪物でも、作品によってデザインが大幅に異なっていることが分かります。ただ、なんだかんだ言って、ボリス・カーロフ演じる怪物の見た目が一般的だと思います。
これらの他に、「ザ・ブライド!」と「フランケンシュタイン/ルーマニア」というタイトルの作品の制作が決定しており、前者はクリスチャン・ベールが、後者はセバスチャン・スタンがフランケンシュタインの怪物を演じるとのことです。
まとめ:Netflix版フランケンシュタイン
150年もの間語り継がれている「フランケンシュタイン」。やはり、複雑ながら切なく悲しいストーリーが魅力となっているのでしょう。
ここまで見ていただきありがとうございました。



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